おきなわ県民カレッジ第11回美ら島沖縄学講座

講  座  名 「『歴代宝案』の世界 その2」

開  催  日 令和元年12月11日(水)

開催場所 南部合同庁舎4階会議室、サテライト会場

講  師 赤嶺 守 氏(名桜大学大学院 特任教授)

前回の講座では『歴代宝案』を読み解くキーワード、「中国」と「礼」を中心に展開された。
今回の講座では『歴代宝案』を読み解くもう一つのキーワード、「進貢」と「冊封(さくほう)」を中心に講義が進められた。「進貢」とは、単に中国皇帝に貢物をおさめるだけではなく、皇帝の臣下としての君臣関係の証である表文を献上し、忠誠と服従を誓う一方、安全を保障する(安全保障体制の構築)ことを意味する。また、冊封とは、各国の国王が、中国皇帝から承認を受けることで、中国皇帝の命をうけた冊封使(一行は総勢400人にもおよび、琉球に約半年間滞在したといわれている)は、先代王の葬儀である諭祭と、新国王の即位式を行った。琉球王府はこれらの儀礼を首里城正殿前の御庭(ウナー)で盛大にとりおこなった。それは、冊封によって琉球国王の権威(君臣関係)を知らしめることと、進貢貿易を王府が独占することで経済力の拡大をはかるという思惑があった。
当時、中国は倭寇の存在により海禁政策を行う一方、「進貢」と「冊封」の政策を行い、東アジアでの求心力を高めていった。冊封使は、貴重な品物であった磁器や絹等、多数の中国商品を持参しており、琉球王府はそれらを入手することで、東アジアにおける中継貿易国としての成功をおさめた。それに貢献したのが久米村の人々の存在である。
1609年、琉球王国は薩摩の侵攻を受け、実態としては薩摩の実効支配にありながら、中国に対しては徹底した隠蔽政策を行いながら属国としての関係を保ち、日中両属(薩摩の附庸国と中国の属国)の関係保持に努めた。しかし、中国がアヘン戦争(1840-1842)で敗れるなど、その求心力は次第に弱まり、1879年の琉球処分により琉球王国は日本に併合された。
赤嶺先生は受講者に対し、「『歴代宝案』によって、当時の琉球王国の様子(歴史)を紐解くことができる。これらの資料により、琉球王国の栄華は中国の存在があったからこそであり、伝統文化等をみても中国の影響を受けていることは紛れもない事実であるということが解る。私たちは、日中両属という屈折した時代を生きぬいてきた歴史を踏まえ、沖縄らしいアイデンティティをもちながら、沖縄人としてこれからの時代をどのように生きぬいていけばいいのかを考える必要があるのではないでしょうか」と投げかけた。
受講者は講義を熱心に拝聴し、赤嶺先生の質問に対して考えたり答えたりしながら、琉球王国の歴史について深めていた。